こんにちは、ホロンです。
今日は、ちょっと絶望を感じた話でも書いてみようかと思います。
10数年前の作品を見て感動することってあるじゃないですか。
名作は何年経っても色褪せないといいます。
実際、時が経つにつれて感動するポイントこそ変わることがあっても、どれだけ時が経っても感動するものですよね。
特に、ダメダメだった人がとある人との出会いをきっかけに努力してどんどん成長していく物語というのはいつの時代も感動を呼びます。
10年前だろうが、100年前だろうが、1000年前だろうが、学びになるものはいつ見直しても学びになります。
「古事記」「日本書紀」「聖書」などの神話や「論語」「万葉集」などの古典はその最たる例でしょう。
ただそう考えたとき、ふと感じたことがあったのです。
名作は何年経っても感動するということは、これから後の世代の人たちも同じように感じるということ。
言い換えれば、
「これから先も人類は同じようなところで感動して、同じようなところで苦しむんだろうなぁ」
と想像してしまったということです。
ということは、この先の未来でも、
- 犯罪や戦争はなくならない
- 差別やいじめもなくならない
- 精神を病んでしまう人も尽きない
- お金に関する悩みも尽きない
ということになってしまいます。
もちろん、現時点での僕がそう感じるというだけで、未来はどうなっているかなんてわかりません。
ただ、人類が今のままの状態でいたらいつまで経っても人類のステージってそのレベルなんだろうなぁと思えてしまうのですよね。
そう考えたらなんかやるせない気持ちになってしまったのです。
一種の絶望感と言ってもいいでしょう。
ただ、そうだとしても、
「自分が世界のどの部分に目を向けるのか」
が大事なのは変わりません。
ネガティブな部分に目を向ければそりゃ世界はどんどん悪くなってるって思っても仕方ありません。
実際、テレビを見ていると犯罪報道や事故報道がされない日なんてありませんからね。
(だから極力テレビは見ないことをおすすめします。)
しかし、「ファクトフルネス」でも語られていた通り、本当は世界はどんどん良くなってきているのです。
「ファクトフルネス」によると、極度の貧困にある状態の人は1800年時点では85%でした。
ところが、1966年には50%になり、2017年には9%まで低下したのだそうです。
他にもいろんなデータを比較されていますが、世界はどんどん良くなってきています。
ただ、僕らは生まれたときからいろんなものが溢れているのがスタンダードになってしまっていて、「それらはあって当たり前」だと思ってしまっています。
本当は先人たちが子孫のためにと紡いでくださってくれたものだというのに。
人は「ある」よりも「ない」ものに目が行きやすい生き物なので、悪いところに目を向けようとしたらそりゃいくらでも見つかるのは当然です。
確かに、今のままでは人間の意識ステージはこのままなのかもしれません。
しかし、そう学んだ・気付いた人はそれを次の人に伝える必要があるのです。
当然ですが、自分1人だけがそう気づいたところで、1人でできることなどたかが知れています。
もちろん、ただ知るだけではなにも変わらないかもしれません。
実際、大事なのは行動だという話はよくされていますものね。
僕も、情報を仕入れても行動に繋がらないのならなんの意味もないという意見です。
しかし、誰かが伝えようとしなければそもそも知られることさえないというのもまた事実。
何かをしたいと考える人は10000人。
実際に行動に移せるのは10000人中100人。
継続できるのは10000人中1人だと言われます。
逆に言えば、自分の発信がそのたった1人の行動につながるかもしれないということです。
そうやって、次世代にどんどん引き継いでいくことで、この人類が抱えている”業”からもっと上の次元に行けるのかもしれませんね。
だからこそ、まずは自分自身からです。
足りない方を見て嘆くのか、ある方を見て感謝するのか。
足りない方を見てただ嘆くだけではなく、どうしたらそれを少しでも良い方向に向かわせることができるのか。
そういうふうに考えられる方が美しいなって思います。
もっとも、僕自身は大した力はありません。
僕にできるのは、自分自身が毎日ブログを更新するという行動を通して、誰かの後押しができたらいいなということと、日本や世界を良い方向に変えていこうとしている人たちのことを紹介していくということくらいです。
そのためには表現力をもっともっと磨いていかなければなりません。
まだまだ表現力が足りないなぁと思いつつ、こればかりは毎日書き続けていくしかないでしょう。
文章力を鍛えるためには文章を書き続けるしかない。
これもまた真理。
日々書き続けていきます。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。