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「ゴジラ-1.0」感想と多次元相互干渉について

こんにちは、ホロンです。

今日は「ゴジラ-1.0」を見てきたので、その感想を書いていきます。

僕はゴジラシリーズは幼少期の頃にいくつか見た記憶があるのですが、正直ほとんど覚えていません。(メカゴジラとかキングギドラとか。)

しっかりちゃんと見たのは「シン・ゴジラ」と今回の「ゴジラ-0.1」だけなのですが、非常に面白かったです!

シン・ゴジラはどことなくあふれるエヴァ臭が否めない作品でした。

非常に庵野監督らしいなーと思いながらも面白い作品だったのですが、今回の-0.1はそれ以上に面白かったです。

いつものごとく一応ネタバレありとして書いていきますので、よろしくお願いします。

感想(ネタバレあり)

舞台は戦後すぐの時代。

終戦処理に追われる中、生き残った人も自分たちの生活で手一杯という状況。

主人公の敷島は特攻隊でありながら、機体に不具合が生じたと嘘を付き、特攻から逃げたという経歴を持つ兵隊でした。

軍人としてはあるまじき行為なのかもしれませんが、そりゃ誰だってできるなら特攻なんてしたくありません。

命の危機に瀕したときに覚悟を決めることができない。

そんな逃げ帰ったという経験・記憶が敷島の中には根深く残り、自分の命を粗末に扱うような言動や行動も目立ちました。

そんな中に突如現れたゴジラ。

人々はなすすべもなく、ゴジラに蹂躙されていきます。

戦後直後という事情も相まって、他国や政府からの支援すらも受けられないという絶望的な状況。

一度は戦艦の攻撃で撃退したように見えましたが、ゴジラの代名詞である「熱線」で戦艦も沈黙。

もはやこれまでと思われた人類でしたが、それでもなんとかゴジラを止めようと最後の戦いに挑みます。

今回は軍ではなく、民間人や元軍人たちが中心となってゴジラをなんとかするべく動いていきました。

物資も人員も何もかも不足しているという状況の中、発動された作戦、「ワダツミ作戦」でゴジラに相対していきます。

戦後ということもあり、科学の粋を集めた最新兵器なんかももちろんありません。

最新兵器もない状況でどのようにゴジラを止めるのか。

その結末はぜひ映画を見ていただきたいのですが、とにかく非常に面白かったです。

この作品から僕が感じた大きなメッセージは2つ。

一つは、御上の力に頼らず、個人個人の小さな意思を寄り集めて大きな意思に変え、強大な敵をみんなの力で打倒していくこと。

そして、刺し違えてでも倒すというような命を捨てる行為ではなく、必ず生きて戻ってくることです。

ケルマデックさんの本で見たちょっと面白い話

さて、ここからは余談。

ゴジラは放射能の怪物として描かれます。

現実世界ではゴジラが初めて登場したのは1954年。

そして、原子力発電所が世界で初めて作られたのも1954年でした。

ちなみに、自衛隊も1954年に作られています。

超常教室ケルマデック」という本によると、ゴジラの映画が作られていないときには日本のどこかで原発事故が起きているのだそうです。

そして、フィクションの世界でゴジラが暴れて街を破壊することで、エンタメとして昇華され、現実には起こらなくなっているのだとか。

ゴジラ映画が作られなくとも、現在はゴジラはゴジラ座という星座にまでなっているから人類がゴジラを忘れることはないとのこと。

フィクションの世界で悲惨な出来事を経験することで、多次元相互干渉を発生させ、現実世界でその悲惨な出来事を回避できる。

にわかには信じがたい話ではありますが、こういう話も面白いなと思うのです。

ヒットする作品にはそれだけの理由がある。

フィクションが現実を変えるのなら、ヒットしている作品にどのような意味が込められているのか、考えてみるのも楽しそうですね。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。