雑記

「普通」「みんな」という幻想

こんにちは、ホロンです。

おもしろき こともなき世を おもしろく 住みなすものは こころなりけり。

これは、かの高杉晋作の辞世の句とされています。

正確には高杉晋作は上の句の

「おもしろき こともなき世を おもしろく」

まで言ったところで、続きが思い浮かばずに苦心していると、側で看病していた野村望東尼(のむら ぼうとうに)が、

「住みなすものは こころなりけり」

と結んだのだそうです。

意味としては、

この世界を面白いと感じられるかどうかは自分の心がけ次第である

ということ。

例えば、なにか自分にとって耳が痛いことを言われたときに、

「なんでそんなこと言われないといけないんだ!!」

と考える人もいますし、

「そうか、自分のそういうところがいけなかったんだな。じゃあ次からはこうしよう」

と考える人もいます。

銀行強盗に襲われて銃撃を受けたら多くの人は、

「ひどい目に遭った…あの銀行強盗許さねぇ!!」

と考えると思います。

しかし、人によっては、

「もし撃たれたのが頭だったら即死してた。命があって良かった…」

と考える人もいるのです。

どういう心がけで過ごしているかで、その後の行動は全く変わってくるのですよね。

とはいえ、後者の考え方は結構ぶっ飛んでいて、なかなか受け入れられないかもしれません。

普通に考えたら昔の僕を含めて前者の考え方をする人が大半でしょう。

しかし、悲しいことに現代社会というものは、「普通に」生きていたら面白く感じないものなのだと考えています。

僕も昔は、

  • みんなと一緒
  • 普通が一番

という価値観に染まっていました。

(今でも完全にこの価値観から抜け出せたわけではありません。)

「出る杭は打たれる」

ということわざのとおり、あまり出過ぎたことをしてもただただひどい目に遭うだけだと思っていましたし、他の人がやってないことをやるのはやはり怖いですからね。

ただ、みんなと一緒とか普通というのは言い換えれば代わり映えがないということ。

例えるなら、仮面ライダーの敵キャラのショッカー戦闘員のようなものです。

幹部と戦う前のヤラレ役のモブキャラ。

一部を除いて全員同じ格好をしていてそれぞれのキャラが深堀りされることもないですよね。

仮に仮面ライダーになんらかの爪痕を残すショッカー戦闘員がいたとしたら、それはもはやモブキャラではなく超重要キャラでしょう。

普通を目指すということはショッカー戦闘員を目指すと言っているようなものであり、それこそ一人二人いなくなっても大した問題がありません。

それが「普通」という名の「平均化」なのだと考えてます。

僕はそう気づいてから、普通でありたいと願うのは少し違うのかもしれないなと思うようになりました。

そもそも、ショッカー戦闘員だって一人ひとり独自の人間関係を築いているはずです。

趣味嗜好だってそれぞれ全く違うでしょう。

そう考えたら、

「普通」とか「みんな」

というのは存在しない幻想でしかないと言えます。

多くの人はその幻想を恐れてしまっているのです。

本当は一人ひとり得意なこと、不得意なこと、好きなこと、苦手なことは違います。

それらは他人の権利を侵害しない限りは責められるようなものでもありません。

「普通」や「みんな」という言葉に囚われていると、一人ひとり別の人間であるという事実が覆い隠されてしまいます。

それぞれの興味が違うという時点で、その興味が向かっているジャンルの知識は他の人よりも秀でているはずです。

ただ、これらは自分から言わないとどんなものが好きなのかは伝わらないというのも事実。

例えば、僕はアニメが大好きです。

ただ、アニメと一口に言っても今は1クールに40〜50本ものアニメが放送されていると言われています。

だから、アニメの〇〇が好き!と具体的に言わないとわからないのですよね。

また、アニメのストーリーが好きという人もいれば、カップリングが好きという人もいますし、考察するのが好きな人もいます。

アニメ一つですらそんなふうに楽しみ方は人それぞれなのです。

だから、自分の考え方なんて…と卑下することなく話してみてほしいのです。

自分の言葉がどんな結果をもたらすかなんて誰にもわかりません。

もちろん、ただ愚痴を垂れ流すだけではダメですが、こういうことが勉強になったとか未来につながる話なら興味を持ってもらえるかもしれませんから。

僕もまだまだ人にうまく伝えられるようになったとは言えませんが、これも練習あるのみ。

興味があれば一緒にアウトプットの練習をしてみませんか?

あなたの知識が誰かのお役に立つことを祈ります。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。