こんにちは、ホロンです。
僕には甥っ子が2人いて、妹家族が帰省した時にはよく遊び相手になっています。
彼らを見ていると、
「子供の好奇心の強さ」に毎回目を見張りますし、見習わなければならないなと思います。
バランスボールとクッションの遊び
例えば、僕の部屋にはバランスボールと三角クッションがあるのですが、普通に考えたらバランスボールは乗っかって椅子がわりに使うとか、エクササイズをするときに使うくらいです。
そしてクッションに至ってはそのまま体重を預けるくらいの使い方が普通でしょう。
しかし、甥っ子たちの手にかかれば、それらは遊びにおいて攻撃と防御を兼ね備えた道具に変貌します。
どういうことかというと、バランスボールをドッヂボールのように相手に投げつけ、クッションを盾がわりにしてその攻撃を防ぐという遊びをするのです。
バランスボールはそれなりに大きく質量があるので、投げるのは僕が担当し、甥っ子たちはクッションでの防御を担当することが多いです。
ですが、その擬似ドッヂボールだけで20分以上遊ぶことができるほど、彼らはいろんなパターンを編み出して遊びに転換することができるのです。
クッションもただ防御するだけではなく、防御したまま突撃して敵(僕)を倒そうとしたりします。
このように、メーカーが想定していた用途とは別の使い方でしょうが、考え方次第でいろんな遊び方ができるんだなと感心しています。
自分の子供時代
思い返せば、僕も子供の頃はあるものをどうにか活用して遊んだりしていたなと記憶しています。
アリの行列が虫の死骸を運んでいるところをひたすらジーーっと眺めてみたり、道路の白線だけしか踏んではいけないというマイルールを作っていかに白線以外を踏まないようにするか考えたり、手頃な棒切れに糸をくくりつけて釣竿のようなものを作って川に垂らしてみたり…
そうやって、今あるものを活用してどうにか遊びを考えていたなと思います。
僕が子供の頃はインターネットやスマホなんてものはなかったので、必然的にそれら以外のもので遊んでいました。
SDガンプラ、ビーダマン、ミニ四駆、テレビゲーム、川遊び…
思い返せばテレビゲームは例外として、子供の頃は〝自分たちで遊び方を開発して〟遊んでいたように思います。
世間の声や〝ないこと〟に目を向けるようになる
しかし、大人になるにつれ、僕らは
- 〇〇生にもなってこんな遊びをしてるの?
- そんなのダサいよ
といったような周りの声や、
「ないこと」
に目を向けるようになっていきます。
〝ないこと〟の一例として、
- 結婚したい
- 大金持ちになりたい
- いい車が欲しい
などが挙げられるでしょうか。
常に、自分に足りていない「何か」を追い求め、それが満たされれば幸せになれると思ってしまっているように思います。
そういう僕も金持ちになって固定費だけでも不労所得で賄えるようになりたいという欲望はいまだに持っています。
ただ、個人的な感覚ですが、ないことに目を向けていても、それがいざ満たされた時に、すぐに次の刺激を求めるようになっていくものだと思います。
僕も、子供の頃はプラモデルやゲームを買うために1ヶ月我慢してようやく買うことができた時の方が長く遊べていたように思います。
現在は子供の頃に比べて財力はあるのでゲームやプラモの一つ二つくらいすぐ買うことができるのですが、時間を忘れて熱中するということはなくなってきました。
修行の日々
もちろん、足りないところを満たそうとするのは人間の本能です。
僕だって「あの人は〇〇ができるけど自分にはできない…」と羨む気持ちは出てきます。
だから偉そうなことは言えません。
でも、足りないものを何かで満たそうとするだけでは誰かから搾取するだけになってしまいます。
まずは自分を満たして相手に分け与えるという順番が大事です。
ですが、自分を満たすことだけを考えて、誰にも分け与えないのは違うはず。
自分を満たすために必要なのはやはり、
「すでにあるものを数えていくこと」なんじゃないかなって思っています。
なかなかこの辺りのバランス感覚が僕もまだまだしっかり掴めているとは言えないのですが、一緒に自分を満たして、溢れた分を人に分け与えるという行動をとっていきましょう。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。